「枝を傍へやる」=「足に余分な指が付いている」? 言語的相対説(サピア・ウォーフの仮説)について噛み砕いて説明してみる②
こんにちは。
前回サピア・ウォーフの仮説について書いてみたら、意外と好評だったので「なんで!?」って思いました。
どうしたの?時代がウォーフを求めているの…?
今回は続きのお話です。具体的な例が出てきます。
- 念のため、この記事は本の紹介です
- 「枝を傍へやる」=「足に余分な指が付いている」??
- 主語は「ボート」じゃないの??
- 文が違うのは「事実が違うから」だけはない!
- 混合物か化合物か
- 「当たり前の考え方」の背景には、言語がある
- 本の紹介
前回はこちら
onceinabluemoonx.hatenablog.com
念のため、この記事は本の紹介です
なまじ反響があったので不安になってきました。
前回からの記事では、ウォーフの「言語的相対論」についての論文を集めた『言語・思考・現実』という本の内容を一部取り上げて、簡単に紹介しています。
1956年に刊行された本ですし、現在ではこの説に対する批判もあるようです。
私自身も専門ではないので、論の正しさについては議論できません。
興味をもったら是非本を読むことをお勧めします。詳細は最後に載せました。
内容の要約に間違いがあったら、コメントいただけるとありがたいです。
「枝を傍へやる」=「足に余分な指が付いている」??
①I pull the branch aside(私はその枝をわきへやる)
②I have an extra toe on my foot(私は足に余分な指が一本ついている)
これら2つの英語の文は、似ているようには見えません。
ウォーフは、普通の人*1がこれらの文が違うと感じるのは「話題にしていることが本質的に違うから」だ、としています。
一方、ショーニー語で同じことを書くと、次のようになります。
①ni-I’θawa-‘ko-n-a
②ni-I’θawa-‘ko-θite
どうですか?
2つの文は、よく似ているように見えますよね。
①の文は、ni-(私)、I’θawa(分岐した輪郭)、-‘ko(木、灌木、枝などと類似の形態をもつ接尾語か)、-n-(手を動かして)、a(「私」がこの運動を適当な対象に対してなすことを意味する)と解釈でき、
「私はそれ(木の枝のようなもの)が分岐している部分を引張ってもって拡げるか離す」
という意味になります。
②の文は、-θite(接尾辞)が(足の指に関した)を意味していて、全体では
「私は余分な指がふつうの指から枝のように分岐して出ている」
という意味に取れます。
つまり、英語(日本語)では全く違うことを話題にしているのに、ショーニー語では同じような語を使って表現されているのです。
主語は「ボート」じゃないの??
反対に、こんな例もあります。
①The boat is grounded on the beach(ボートが岸に乗り上げられている)
②The boat is manned by picked men(ボートにはよりすぐった人が乗り込んでいる)
これらは、どちらもボートについて話題にしていて、他の対象(岸・人)との関係について述べています。
2つの文は、かなり似ていますよね。
同じことを、ヌートカ語で陳述すると次のようになります。
①tlih-is-ma(それは岸にあって、すべての点でカヌーの運動のようである)
②lash-tskwiq-ista-ma(彼らは選ばれた者からなる乗組員としてボートに乗っている)
今度は、両者は全く違っているように見えませんか?
どちらの文も「ボート」や「カヌー」という、英語に近い言語にはある単位すら含んでいません。
ちなみに文を解体すると、-ma(三人称直接法の印)、tlih(点状に動く)、is(岸で)、lash(選ぶ、よりすぐる)、tskwiq(残り、結果)、ista(乗組員としてカヌー(ボート)にいる)と訳せます。
”ista”自体がボートを意味しているわけではないことがわかりますね。
文が違うのは「事実が違うから」だけはない!
このように「言語的相対性」という視点から見ることによって、
「文が違うのは違った事実について言っているからである」
と言う代わりに、
「話し手の言語的な背景によって、事実は異なるまとめ方をされる」
「異なるまとめ方をされた場合、事実は話し手にとって違ったものとなる」
と考えることが出来るようになるのです。
混合物か化合物か
さて、ここから先は抽象度の高い話になります。
ショーニー語やヌートカ語のような言語についてウォーフは、「構成する語が直接何を指すかということよりも、むしろ、おたがいどうしいろいろな風に結びついて、何か新しい有益なイメジを作り出すような力を持っている」と考えました。
その意味で、文の要素の結合が「化合物」的なこれらの言語を「抱合語」と呼んでいます。
一方で、英語での文の要素の結合は「機械的な混合物」的であり、抱合語とは対照的です。
抱合語の一番の特徴は「自然を分析していき」、「示唆的な再結合が可能であるような基本的な語彙まで至っているということ」だとウォーフは言います。
「当たり前の考え方」の背景には、言語がある
これらのことから、彼は次のように考えます。
(西欧を中心とした)伝統的な論理では、機械的なものの考え方が取られてきました。
しかし、例えば相対性理論などのように、電子や光の速さなどの要素が非論理的な働きをすることについて、従来の考え方では上手く説明ができません。
他の言語や新しい型の論理の助けを得ることによって、このような問題についても説明することが可能になるかもしれないのです。
しかし同時に、機械的なものの考え方から脱却することの困難さについても指摘しています。
なぜなら、私たち人間は違った種類の言語的な経験というものをもたず、言語的な経験なしには違った種類の論理を提供することは不可能だからです。
ちょっとここ難しいですね。
つまり、機械主義的な考え方は、いわゆる普通の人が日常西欧の言語を使う際に、言葉のあり方に連動する形で自然と使われてきた一つのタイプにすぎないのです。
その考え方のタイプが、アリストテレスを起源としながら中世、現代に至るまで固定化され、強化されたものに他ならないのだと、ウォーフは言います。
言語が、人間の思考のあり方に枠組みを与えているのではないか、というのが彼の立場なのです。
本の紹介
B・L・ウォーフはアメリカの言語学者。イェール大学でE・サピアの教えを受け、メキシコの古代語(アズテク、マヤ)、アメリカ、インディアンのホーピ語を研究しました。本書は没後の1956年に友人J・D・キャロルの編纂により刊行されたものの邦訳です。
本書は言語的相対性原理に関わるウォーフの複数の著作を収録したものですが、その中でも専門以外の人たちのために書かれた6章「言語と論理」を中心に、「言語的相対論」(サピア・ウォーフの仮説)がどのような考え方なのか見ていっています。
*1:ウォーフは「自然論理を信奉するところの「平均人氏」」と表現しています。