くまだかいぬだか

「いま、ここ」を飛び出したい。物語が好き。

自分の「当たり前」に問いかける 言語的相対説(サピア・ウォーフの仮説)について噛み砕いて説明してみる③

①はこちら

onceinabluemoonx.hatenablog.com

②はこちら

onceinabluemoonx.hatenablog.com

ウォーフ『言語・思考・現実』の紹介は、今回が最後になります。

「空」とは?「丘」とは?「山ぎは」と「山のは」が分けるもの

ウォーフは、それぞれの言語は文の構成という点で異なっているだけでなく、「いかに自然を分節するか」という点でも異なっていると考えました。

「われわれはできごとの広がりや流れをわれわれなりのやり方で分節し、体系化する」。

それは、母国語を通じてそのような考え方をすることに合意があるからであって、決して自然そのものが全ての人にそう見えるように分節されているからではない、というのです。

つまり、どういうことなのでしょう。

例えばsky(空)、hill(丘)、swamp(沼)といった語彙があります。

でも、空ってどこからどこまで?丘ってどこからどこまで?沼と池ってどう違うの?と聞かれた時、あなたは明確な線引きをすることができますか?

こういった自然の中の概念は、本来捉えがたい、実体のないものであるはずです。

ウォーフが念頭に置くのは英語ですが、例えば日本の古語でも同じような例が挙げられるのではないでしょうか。

枕草子」には「山ぎは」「山のは」という2つの単語が対比されて登場します。

岩波の新古典文学大系では、「山ぎは」は「山の稜線附近の空」、「山のは」は「山の稜線。空に接する所を言う」と説明されています。

このような語彙を知らない時、私たちは山の稜線と空の溶け合う様を見て、山側、空側、と分けるのでしょうか。

こういった概念は多分英語にもないと思います。当然ですが英語と日本語も違った言語なんですよね。

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Reimund BertramsによるPixabayからの画像

さて、ウォーフは以上のような例を指して「限りなく多様な自然の捉え難い特徴」を、「まるでテーブルとかいすのように一つの区別された「もの」と考えるよう、われわれを仕向ける」と言います。

そのため、英語やそれに類似した言語の立場からは、

世界は「かなり明確に区別されたものやできごと」の集まり、として捉えられます。

これがSAE(平均的ヨーロッパ標準語)使用圏での古典的な世界像です。

しかし、「テーブル」などの人の作った独立したモノと、「雲」や「海岸」、「かなたを飛ぶ鳥の群」など、常に形を変化させ続ける自然の中の現象(自然のおもて)は、同列に考えられるものなのでしょうか。

例えば英語では"It is a dripping spring"(それは水のしたたり落ちる泉だ)と表現することができます。

同じ事実を見たアパッチ族は、ga「白い(澄んでいる、無色である、など)」という動詞を中心として「水、または泉のように白いものが落ちる」と表現します。

このように、ある種の言語では個々の項が英語ほど分離していません。

このような言語では、「外界は個体よりなるもの」という世界像をもたないため、(従来のSAE使用圏の考えとは異なる)新しい論理や、新しい宇宙観が生まれてくる可能性があるのです。

名詞↔動詞の二項対立

もう少しお付き合いください。

印欧語やその他多くの言語では、「名詞」と「動詞」という二つの部分から成り立つ文型が多く見られます。

日本語でも基本的にこの形を取りますね。

ウォーフは、この区別は自然にできたものではなく、言語が構造を持とうとして生じた結果であり、アリストテレスに代表されるギリシャ人がこの対立を構成化し、理性の法則として利用したものであると考えています。

アリストテレス以来、「名詞⇔動詞」という対立は、論理学では「主語と述語」、「行為者と行為」、「ものとものの間の関係」、「対象とその属性、量、作用」などのさまざまな形で述べられてきました。

「SVOC」なんて言葉を受験英語ではよく使いましたが、英語では原則、主語と動詞として名詞+動詞という形を取りますよね。

例えば「きらめく」ということを述べるのにも、"it flashed"や"a light flashed"のように、形式上の主語(動作主)を必ず立てなくてはなりません。

ウォーフによれば、この文法の仕組みは、

名詞(「もの」)はそれだけで存在することができるが、

動詞は「もの」の部類に属するものをひっかかりとしないと存在できない、「実体化」することが必要である、という考え方に関与しています。

また例えば、数学で用いられる記号は、「1,2,3,x,y」と「+,-,÷,log~」のように大きく二種類に分けられます。

このように、「二つの部類からなるという考え方」は、常に思考の背後に存在しているのです。

先ほどの例で言えば、主語と述語に分ける必要のないホーピ語では、rehpi(きらめく、きらめきが起こる)という1つの動詞で伝えることが可能だそうです。

自然の中に「虚構の動作主」を設定する必要はありません。

日本語でも「きらきらしてる〜」って普通に言いますよね。

この点では日本語とホーピ語って似ているのかもしれません。

まとめ

結局、英語を中心とした言語と他の言語を比べることで、何が見えてきたのでしょうか。

ウォーフは、思考の型を(特に平易な)英語にだけ限るということは、思考の力を失うことであると主張しています。

同時に、単純な英語であっても、多種の言語を意識した観点から使いこなせるなら、もっと大きな効果を伴った扱い方ができる、と述べています。

このような考えから、未来に言語がひとつに統一されるのではないか、といった予測に対してウォーフは否定的であり、そのような理想自体が「人間精神の進展に大変な障害を与える」と言うのです。

また彼は、西欧文明の問題点は、印欧語を絶対視した分析に執着しがちであることだ、という見方を示しました。

その是正のための唯一の道は、「永い永い独立の進化によって、別な、しかしそれでいて、同じように論理的な一応の分析の結果に到達した他のすべての言語に見出される」と述べています。

グローバリズムは、遠く隔たった場所にいる人々の距離をも近くしました。

母語が違う人たちが協働する機会はこれからもっと増えていくでしょう。

その時に、言語が異なるだけでなく、考え方や価値観も異なるのだという認識を持って、互いに尊重し合う関係が構築できれば良いなあと思います。

自分の中の「当たり前」を、常に問い直していきたいものです。

 おしまい!