「共感」って大事ですか?
「共感」って、結構怖いと思う。
と最近考えるようになった。
自分の感覚を物差しにして相手の心を測り取り、共感できる、共感できない、って審判を下していくことって、よく考えたら、いやよく考えなくても、凄く烏滸がましい。
例えば、性的マイノリティの人と会った時。
性的指向や性自認が違う人の感覚に「共感」することは難しいかもしれない。だって経験がないから。
でも分かろうとすることはできる、想像することはできる。その上で客観的に考えることはできる。
「共感」できない、と切り捨ててしまったら、そこで終了だ。
共感できないから認めない、なんて烏滸がましいにも程がある。
話は変わるけれど、就活生の時、とある出版社の面接試験で心に残っている小説の話になった。
私は「ノルウェイの森」を挙げた。
高校の時初めて読んで、あ、自分には村上春樹だめだな、と思った。
私はワタナベくんに全く共感できなかったのだ。
けれど大学生活をいくらか経験し、テクスト論とか文学理論を幾許かかじってから読み返した時、今度は面白く読めた。
それはどうして?と面接官に聞かれて、私はちょっと考えた。
大学生になって、ワタナベくんに共感できる部分ができたことは一つかもしれない。
けれどそれ以上に、読書の面白さは登場人物に共感することだけにあるのではない、ということに気づいたからだと思う、というようなことを答えた。
答えながらなるほどな、と自分で納得した。
その後選考突破の連絡が来た。
まあそういうことだ。内定出なかったけどね。
「ナイルパーチの女子会」を読んだ。
「共感」できるかどうかで読んだ人は、読み進めるにつれ脱落してしまうと思う。
「つまらないわけじゃないけど、なんだか主人公に共感できなくて」
「共感出来ないと楽しめないじゃない」
「共感」できるものを絶対的正義として依存し、「共感」できないものは忌むべきもの、と切り捨てる主人公・栄利子。
その姿は、自分への自信のなさ、孤独になりたくない、という叫びの裏返しであり、痛々しい。
けれどそれを分析するもう一人の主人公・翔子も、読者が「共感」できる人物像として描かれているわけではない。
「共感」を求める社会って、窮屈だ。
だけれど、では、決して「共感」し合えない人と人とが、ひとときの関係性を築こうと足掻く社会は、生きるに値しないものなのか?
ナイルパーチは、それでも生きていくのだ。