くまだかいぬだか

「いま、ここ」を飛び出したい。物語が好き。

ヨコハマトリエンナーレ2020 ①横浜美術館 「派手」じゃないけど面白い 他者と「物語」を共有すること

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ヨコハマトリエンナーレ2020」に行ってきた。

トリエンナーレ」とは3年に一度開かれる展覧会のこと。

その中で「ヨコハマトリエンナーレ」(ヨコトリ)は「現代アートの国際展」と銘打っている。

2001年から開催しているそうで、今回は第7回展。

私は2011年の第4回展から欠かさず見に行っているので、気づいたら4回目のヨコトリだった。

今回のタイトルは「AFTERGLOWー光の破片をつかまえる」。

自分では説明が難しいというか消化しきれていないので、以下は公式サイトからの引用。

タイトルのAFTERGLOW(残光)とは、私たちが日常生活の中で知らず知らずのうちに触れていた、宇宙誕生の瞬間に発せられた光の破片を指すものとして選ばれた言葉です。ラクス・メディア・コレクティヴは、太古の昔に発生した破壊のエネルギーが、新たな創造の糧となり、長い時間をかけてこの世界や生命を生み出してきたととらえ、現代の世界もまた、さまざまなレベルでの破壊/毒性と、回復/治癒の連続性の中で、人間の営みが行われてきたと考えています。目まぐるしく変化する世界の中で、有毒なものを排除するのではなく、共存する生き方をいかにして実現するのか。ラクス・メディア・コレクティヴと共に、アーティストや鑑賞者、そのほか様々な形で本展にかかわる人々の間でこの問いを共有し、思考を続けていくことによって「ヨコハマトリエンナーレ2020」は形作られていくことになります。

ヨコトリ2020について - ヨコハマトリエンナーレ2020「AFTERGLOW―光の破片をつかまえる」-横浜トリエンナーレ

(「ラクス・メディア・コレクティヴ」とは今回のアーティスティック・ディレクターであるインドの3人組アーティスト集団のこと。)

なんとなくわかるようなわからないような。

ということで以下全体的な感想。

映像作品が多い

今回のヨコトリ、正直言って地味な印象だった。

現代アートの展示なので、毎回「わからない…」と思いながら見ているんだけど、今まではわからないなりにパッと目を引く作品が多かったというか。

直近でいうと2017年のヨコトリ「島と星座とガラパゴス」では、カラフルな熊が展示されていて目玉作品的な扱いだった。

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パオラ・ピヴィ《I and I(芸術のために立ち上がらなければ)》(2014)

本来的には色々な意味が込められた作品なんだけど、鑑賞者としては「わあ綺麗!」って言いながらインスタ映えな写真を撮れる程度の親しみやすさがあった気がする。

今回でいうと、冒頭に写真を載せたニック・ケイヴ《回転する森》(2016、2020再制作)はこっちタイプの作品で、実際入口の正面に展示されて来た人を惹きつけていた(もちろん「綺麗」なだけじゃなくて、色々な意味を込められた作品であることは前提として)。

ただ今回こういうダイナミックな、形ある制作物が少なかった、目立たなかったと思う。

で、その代わりに多かったのが映像作品。

コロナの影響で日時指定券なのに尺長めの映像作品が多いので(1時間とかあった)、どの作品もつまみ食いしながら回る形になってしまった。

できればチケットに映像作品フリーパス的なものを組み込んでもらえればありがたかった。

個人的には、派手さはあまりなくても、じっくり見て世界観に浸ってみたい作品が多かったという感じ。

芸術に特に興味ないけど綺麗な写真撮れるかな?って人にはあまりオススメしない。

ちなみに小さい子は、デコボコした床のような作品(ズザ・ゴリンスカ《ランアップ》(2015))の上で遊んでいて楽しそうだった。

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ただこの間の「美術館女子」の件もそうだけど、昨今のアートを背景にして自分の写真を撮る、みたいな風潮がそもそもどうなのかという話でもあって。

今回のヨコトリは作品そのものを見てもらおうという趣旨だったならなるほどと思う。

映画館の文化の浸透度はすごいもので、みんな基本的に映像作品にカメラ向けようとしないもんね。

物語の共有

その数多の映像作品の中で印象深かったのが、飯山由貴《海の観音さまに会いに行く》(2014/2020)。

アーティスト - ヨコハマトリエンナーレ2020「AFTERGLOW―光の破片をつかまえる」-横浜トリエンナーレ

精神疾患を抱えた妹さんの世界を体験するために、飯山さんたち家族がムーミンキャラクター(らしいもの)に扮して箱根周辺を歩く様子を撮ったドキュメンタリー。

キャラの着ぐるみがなんとも独特で、最初はまさかムーミンだとは思わなかった。

作者の妹さんへのインタビューもあった。

妹さんはムーミン谷で暮らしている妖精さんだそうで、木苺ジュースと言いながらアンバサを飲んでいる様子を見て、正直私には事態が飲み込めなかった。

そういう妹さんの内にある世界観を理解して(しようとして)、キャラクターに扮して踊ったり歩いたりして目に見える形で「表現」する家族。

内部に独自の世界を持つ、精神疾患を抱えた人って一見異質な存在に見えるけど、でもよく考えたら人は皆、「物語」を持って生きているんじゃないだろうか。

たしかジュネット物語論(ナラトロジー)の中で、出来事が起こった順番に並べたのが「ストーリー」、それを物語ることによって出来事同士に因果関係が見出だされて「プロット」になる、みたいな話があった(と思うんだけど、よくわからないのに書いていて恥ずかしい)。

何が言いたいのかというと、要するに私たちは出来事に直面した際、ただの出来事としてではなく、自分なりの物語を作って受け止めているのではないか。

「あの子と一緒に帰る約束をした。待ち合わせ場所に行ったら先に帰っていた」が出来事だったとしたら、

「あの子と一緒に帰る約束をしたけど、待ち合わせ場所に行ったら先に帰っていた。もしかしたら意地悪されたのかもしれないし、急用ができて連絡する間もないまま急いで帰宅したのかもしれない」が自分なりの物語みたいな。

相手とこのような物語を共有できると、その物語の紡がれ方から人となりを知ることができるし、じゃあ明日その子に理由を聞いてみようか、と建設的な話をすることができる。

相手を理解するために物語を共有することが効果的なのだとしたら、飯山さんの作品は特別な人のためのものではなくて、あらゆる人間の本質的な部分を映し出すものなのではないだろうか。

妹さんの「物語」を飯山さん家族の「表現」によって共有した私たちも、会ったこともない彼女の内に抱いているものを少し覗けた気がした。

というか、あらゆる芸術作品は「物語」の共有なのかもしれないということを思ったり。

現代アート面白い

色々書いてみたけど、全く別の意味を読み取った人もいると思う。

私が現代アートで好きなのは、一見わかりづらい代わりに正解がなくて、鑑賞者ごとに作品と対峙して考えを広げられるところ。

インスタ映えはしないかもしれないけれど、ちょっと面白そうだな、気になるな、と思った人はぜひ覗いてみたらいいと思う。

ちなみに今回は横浜美術館に展示されていた作品のことを書いたんだけど、ヨコトリ2020には別にもう2つ会場があった。

そのうちの一つ「プロット48」では海老のAV(エービー)が上映されるなど、かなりパンチの効いた展示がされていたので、次の記事で紹介したい。

onceinabluemoonx.hatenablog.com