くまだかいぬだか

「いま、ここ」を飛び出したい。物語が好き。

「元」小学校教員になったので言いたいことを(問題のなさそうな範囲で)言う。

 

0.はじめに

小学校教員を退職した。

私が勤めていたのはとある地方自治体の公立小学校で、働いていた期間はほんの数年に過ぎない。

昨今、教育現場の疲弊した様子についてメディアでも取り上げられるようになっていて、「教員の多忙化」みたいな話は世間にも伝えられてきている。

せっかく実際の学校現場にいたのだから、自分の経験したこと、思ったことについて少しでも書いておきたいなと思って書くことにした。

これは個人的な見解であって、もちろん他の学校現場が全部同じだとは思わない。偉そうなことを言っているように読めたらすみません。

 

1.忙しすぎ

私が先生を辞めた一番大きい理由は「自分のしたい教育との関わり方は(少なくとも)今の学校現場ではできない」と思ったからだ。

元々読書とかことばに関心があって、大学でも研究して、それらに関わるための一つの手段として小学校教員の職を選んだ。
けれど少なくとも、私の勤務校では、教科指導は二の次になっていた。

それほどまでに、学校や教員の役割が多くなりすぎている現状がある。

 

毎日のようにある会議や学校内外の研究会。
放課後の指導で少しでも下校が遅くなれば子どもを家まで送る、保護者に電話が繋がらず退勤できないことも多々。
全部終わってからやっと、授業準備。
回し切れなかった分は休日出勤。
とにかく時間でカバーしようと、毎日夜遅くまで、ひどいと日付が変わるくらいまで働いて、土日もほぼ毎週出勤した。

結局、疲れが溜まる→能率が下がる→残業する→また疲れが溜まる…という悪循環に陥った。

もちろん全ての教員がここまでの長時間労働をしていたと言ったら大袈裟になる。要領よく仕事を裁くスキルを持った先生もいた。そういう人は精神的にも余裕があるので、比較的親切にしてくれた。 


ただ現実として、夜遅くても、正月三が日でも、若手からベテランまで、出勤すると誰かしらが必ずいた。
残業代が出ないので勤務時間が厳しく管理されることもなく、時間感覚がどんどん麻痺していった。皆麻痺していたと思う。

最低限の職員数で、皆いっぱいに仕事を抱えていて、初任や若手を含めて他の人を手助けする余裕はない現状があった。

 

2.変わる社会と変わらない学校現場

共働き家庭が増え、小さい頃から保育園に預けられてきた子どもも非常に多い。

朝から晩まで仕事をしていて、「子どもの話を聞いてあげられる時間もないんです。可哀想とは思うけれどどうにもならなくて…。」と話してくれた保護者の方もいた。

個人的な体感としては、昔から家庭や地域でされてきた所謂躾をするという役割が、学校にも求められるようになっている気がしている。

これは良し悪しではなく、社会が変わっていく以上時代とともに学校に求められる役割が大きくなるのは、当然のことだろう。

 

問題は、それだけの変化があったにも関わらず、学校教育を支える体制が昔から変わっていないことだ。

教員は残業代が出ない分、基本給に幾分かの上乗せをされるように給特法が定めているが、その基準は1966年当時の労働状況。

週の時間外労働が2時間弱だった時代を基準とした4%分の上乗せだ。

私の場合でいえば月の超勤は80時間程度。4%は無に等しい。

このような状況が報道され始めて、最近は上主導の働き方改革が叫ばれつつある。

しかし、改革は多分思うようには進んでいかないのではないかと考えている。
なぜなら、それを望んでいない先生が実は多いから。


3.働き方改革を求めない職員室

勤務校での実感として、「子どものためだから」この働き方が当たり前だ、と捉えている人が少なくなかった。

子どもが大好きだから会えなくなる長期休みはいらない、子どものために毎日遅くまで手書きの学級通信を作る、小さい頃から教師になることだけを目指して努力してきた、こういう先生が本当に多い。
「『子どものために』全力を尽くして仕事をするのが素晴らしいことだ」「そう思って苦労をしてきたのだからこの働き方は当たり前だ」。忙しいことに愚痴はこぼしつつも、今の状況に充実感を覚えていて、現状を変えたいとは思っていない先生は、実は多いのではないか。


キャリアに関係なく、「子どもが大好きだから」とすごく楽しそうに仕事をする先生もたくさんいる。忙しい働き方の中で、素直に尊敬する。私には正直周りにいた先生たちほどの思いはなかった。

一方で、何か仕事上のミスをした時に「本当に子どもが好きなのか」と、ミスの内容そのものではなく人間性を非難してくる人が一人となくいたことは記しておきたい。
「子どものためと思って自分はこんなに犠牲を払って働いてきて、それなりの成果を残したんだから、若手も苦労しろ」という思いがじりじりと伝わってきた。

自分で思っている分にはご立派なことだが、他人にまで押し付けるのは違う。

ただ、こうした人たちもそのように思い込まなければやっていけないような環境なのだ。その意味で言えば気の毒にも思う。本人はそうは思っていないかもしれないけれど。

 

こうして、結局「子どものために」「子どもが大好き」という気持ちを強くもった人だけが教員を続け、そういった先生たちの多大な(傍から見れば)自己犠牲のもと、学校現場はかろうじて回っている。

 

4.まとめ

これだけ多忙な状況が報じられても「先生になりたい」と思って教職に就く人はまだまだいる。

私もその一人だった。ただ、ちょっと覚悟が足りなかった、というかリサーチが足りなかったので辞めることになった。自分の責任はもちろんある。

ただ、教員志望の学生は確実に減ってきている。

抜本的な改革が取られることなしには、早晩学校教育は成り立たなくなるだろう。

小学校での教科別指導の話も出てきている。

職員室に変化を求めない人が少なくない以上、簡単な道ではないだろうが、未来の教育現場のために、少しずつでも労働環境が改善されていってほしいと思っている。