くまだかいぬだか

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言語的相対説(サピア・ウォーフの仮説)について噛み砕いて説明してみる①

「言語的相対説」って何?

みなさん「言語的相対説」って何なのか気になったことはありませんか?

ありませんか。まあそうそうないですよね。

でも「サピア・ウォーフの仮説」って聞いたことありませんか?

サピア・ウォーフの仮説とは、サピア(師匠)の考えを引き継いでウォーフ(弟子)がまとめた「言語的相対説」のことです。

「言語的相対説」とは何か簡単に説明すると、「言語とその話者の思考とには関連性がある」というような考え方のことです。

大学院の授業でちょっと調べてみたら面白かったので、ウォーフ『言語・思考・現実』*1を元に、言語相対説について紹介します(当時のレポートが元です)。

ちなみに私自身は言語学を専門にしてはいないので、あくまでも上記の本に書かれている内容について紹介するものだということをあらかじめ書いておきます。

これを読んで少しでも興味を持ったら、ぜひ詳しく調べてみてください。

 

簡単に本の紹介

BL・ウォーフ/池上嘉彦訳『言語・思考・現実』(講談社19935月)

B・L・ウォーフはアメリカの言語学者。イェール大学でE・サピアの教えを受け、メキシコの古代語(アズテク、マヤ)、アメリカ、インディアンのホーピ語を研究しました。本書は没後の1956年に友人J・D・キャロルの編纂により刊行されたものの邦訳です。

本書は言語的相対性原理に関わるウォーフの複数の著作を収録したものですが、その中でも専門以外の人たちのために書かれた6章「言語と論理」がわかりやすいので、それを中心に「言語的相対論」(サピア・ウォーフの仮説)がどのような考え方なのか見ていきます。

「言語的相対論」とは?

こんなことを聞いたことはありませんか?

イヌイットエスキモー)の言葉

→〈雪〉を表す語がいくつもある=違った種類の雪を細かく区別している

 

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日本語

→〈雨〉を表すいろいろな言葉がある(夕立、春雨、五月雨…)

 

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これ不思議ですよね。

以前紹介した『翻訳できない世界のことば』という本では、世界中にあるその地域独自の語彙が紹介されていましたが、どうしてそのような違いが生まれるのでしょうか。

さて、このようなイヌイットの〈雪〉についての論説を、一般に対して最初に提出したのがウォーフです。

同じ出来事であっても、それが言語化される過程では違った捉え方の枠が適用されることがあります。

異なる言語が異なる捉え方の枠を提供しうるとすると、言語の違いは〈ものの見方〉にも影響するのではないか? という疑問が、言語と思考というテーマの出発点になります。

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図にするとこんな感じ

先ほどの例でいくと、同じ「雪」を見たとき、日常的に雪に囲まれて生活しているイヌイットの人は「雪」をより細分化したある特定の状態のものだと認識して「〇〇だ」と言語化するのに対し、普段雪を見ない地域の人は「雪だ」と言語化する、という感じでしょうか。

このように、同じ出来事を目にしても異なったことばで表現するのは、言語化の過程にある捉え方の枠が異なっているからだと考えられるんですね。

そこでウォーフが行なったのが、平均的ヨーロッパ標準語(Standard Average European、SAE)とアメリカ・インディアンの言語の比較研究です。

当時、英語に代表されるSAEは、「人類最高の文明を支える」ものとして絶対視されがちでした。今もその傾向はあるでしょう。

これに対しウォーフは、言語同士を比較して相対化することによってSAEを

・何か本質的に他の諸言語に勝る素質があるのではない

・他の諸言語にも西欧の言語とは別な優れた特性が備わっているはずである

という観点から捉え直そうとしました。

「サピア・ウォーフの仮説」(言語的相対論)の現在の基本的な認識としては、

・人間の言語は、諸言語間でただ無闇に異なっているのではない(例えば日本語では「バスが来た」と言えるが、この現在と過去で時制を使い分けないという文法はアメリカ・インディアンのホーピ族の言語と共通していると言える)

・なぜなら人間の〈身体性〉(心身両面を含めて)という条件づけに関しては、〈人間〉は種として十分な共通性を備えているから

・つまり〈言語〉も相互に予測の術もなく異なりうるようなことはあり得ない

要するに

・言語の異同の幅には一定の制約があり、その中で許されうるいくつかの有限個の可能性のうちどれを選ぶかという点での違いに過ぎない

というようなことになります。

簡単に言うと、

ある言語を特別な言語だ!と見なすのではなくて、

世界の諸言語はどれも〈人間〉の作り出したものであって、ちょっとずつ似ているよね!

結局世界は一つだよね!

という考え方をしようね、ってことです。

私はこのへんの世界観が気に入ったので言語的相対説に興味を持ちました。 

おわりに

長くなってきたので今回はこの辺りまでにします。

期せずしてシリーズものになりました。

読みたい人いるんですかね?

次回は具体的な説明に触れる予定なので、こんな記事に辿り着いて最後まで読んでくださった奇特な方はぜひまた読んでください。

それでは!

↓続きはこちら

onceinabluemoonx.hatenablog.com

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*1:BL・ウォーフ/池上嘉彦訳『言語・思考・現実』(講談社19935月)