セントジェームス ウエッソンのタグは右側に付いているという話
小学校で先生をしていた時、服の前後をどうしても間違えてしまう子がいた。
体育着を逆に着て、普通の服に着替えたらまた逆で…といった具合に。
その度に「ペラペラしたやつが後ろに来るように…」とか声を掛けてたけど、その子にはその子のこだわりがあるから上手くいかない。
だんだんお互いうんざりしてきたし、まあ命に関わることではないからな…と静観しつつあった。
ある日先輩の先生に、「服ってさー、タグが必ず左にくるように作られてるの、知ってる?」と言われた。
その人はユニークなクロージングを売っているある民間企業で数年働いた経験をもってしてブイブイ言わせている(死語)強面の先生だった。
そして「タグを左にしてみな」と言ったらその子はあっという間に正しく服を着ていた。
「こんなことも思い付かないようじゃまずいよ」と言われて、私は素直でピュアピュアな若手だったので「こんなことも思い付かないなんて私は何てダメなんだろう…」と思った。
その頃は色んな人に色んなことを言われていたので、ちょっと悲しくなった後はまた別のことに上書きされて、一つの悲しさに囚われる余裕もないまま日々を過ごしていたし、そのうちこの仕事何か違うな〜と思って私は先生を辞めた。
でもなんとなく、「タグは必ず左側」という教えが心に残っていた。
ところが、下ろしたばかりのセントジェームスのウエッソンを着て出かけたある日、私は服の前後を間違えていることに気づいた。
出先で。
でもタグは左側にあるのに…なんで??
なんと、タグが右側にくる仕様になっていたのである。
調べてみたら、海外製の服を中心に、タグが左側にない例は結構あるらしい。
「知らないとやばい」と言われたあの教えは、海外製の服には適用できないくらい限定的なものだった。
結局、私が過ごしたあの学校での数年は、そんなことの積み重ねだった気がする。
学校の中でしか通じないルールを、絶対的なものとする世界。
他の人にも色んなことを「当たり前でしょ!?」と教え込まれたけど、それって外の世界でどれだけ通用するものだったのか。
でも実際、タグが左側と言われたあの子はあれ以来服の前後を間違えなかったし、学校の先生としてあの人が教えたことは正しくて。
でもなんだろう、そういう違和感、不信感みたいなものが澱のように積み重なっていって、私は苦しかった気もする。
とりあえず、もう26歳にもなるので、服の前後くらいはタグに頼らずにわかるようになりたい。
あとたった数年の経験を盾に「学校ではこうだけど知らないの??」とか言わないようにしたい。
さて、ここからはセントジェームス・ウエッソン(ボーダー)のレビューを書きます。
こんなアクロバティックな角度から言及してセントジェームスに怒られたらどうしよう。
OUESSANT "BORDER"
ウエッソン[ボーダー]
セントジェームスのシャツの定番中の定番。ボートネック、長袖のシャツの原型はノルマンディー地方の漁師やヨットマン等の船乗り達が着ていたもの。実用的に考えられた素材、スタイルが特徴です。
コットン100%、目のしっかりとした素材は、洗濯機でガンガン洗っても大丈夫。着込んでいくことによって、だんだんと風合いも出て、肌に気持ちよくなじんでいきます。
※100%コットン
生地はしっかり目。
買う前はパリジェンヌ的なイメージを持ってたんだけど、もっと無骨な感じ。
下にデニムとか合わせてラフに着るのがかっこいい気がしてます。
生成り地が王道らしいんだけど、試着してみたら白地の方が顔色が明るく見える気がしたのでそちらを。
イエベ春の人は白地がいいのでは。多分。
右側にタグが付いていることだけ覚えてもらえたらいいです。
国旗が可愛い。
おフランス製です。
洗濯機でがしがし洗うのがセントジェームス流らしい。
主婦の人が着てるイメージもあるし、長く着ていきたいです。
主体的に眼差される女性たち 横槍メンゴ『一生好きってゆったじゃん』
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横槍メンゴが贈る7編の青春オムニバス結ばれることのなかった初恋の人。憧れ続けた同級生。なりたかった理想の自分。
永遠に届かないあなたに恋をしてしまった私たちは
戸惑い傷つき失いながらも、自分だけの答えを求め彷徨うーー
最新号の「BRUTUS」で村田沙耶香さんが書評を寄せていたのを見て、気になって買ってみた一冊。
そのページがちょうど試し読みできるのでよかったら見てください。
ペンベームがふざけすぎてて書いていて不安になる。(失礼)
7つの短編が収録されていて小学館から出てるんだけど、そのうち3つの話はジャンプ系列の雑誌に掲載されたものらしい。
へえーと思ったけど、こういうことってよくあるんですかね?
7分の3が2020年発表の作品なのでお得感がある。
「Neo Dutch Wife」と「恋は前傾姿勢」以外は全部女の子が主人公だった。(ちなみに後者は8ページの小品)
この人の描く女の子はどの子も可愛い。
可愛いんだけど、「若い女の子」っていう今の自分が持つ価値に意識的で、使えるものは使えるうちに、と武器にして生きようとする。
主体的に自分の身体を使おうとする姿勢はある意味ではフェミニスト的でさえあるんだけど、その根底にあるのは結局、自分が男性に性的に眼差される受動的な存在であるということへの諦念であって、読み終わった後切ない気持ちになる。
男性読者の人はどういう気持ちでこれを読んでいるのか聞きたい。
私が特に印象深かったのが「「かわいい」」と「南無阿弥だいすき」。
「「かわいい」」は14歳のジュニアアイドルの雪帆の話。
結構きわどい格好で活動していて同級生の女子からは「ビッチ」と呼ばれいじめられているけれど、本人は意に介さない。
雪帆は自分が「かわいい」ことを自覚していて、今持てる価値を最大限に生かして「かわいい」をもらおうとする。
「「かわいい」の貰えない奴ら」は、「フツーに哀れ」。
同じ活動をする姉は、「男の人が怖くなった」「普通には生きられない」と嘆く。
それでも辞めた後のことを見据えて芸名を使い、夢に向かって地道な努力をする姉。
でも雪帆には「これしかない」。
自分は「かわいいだけ」だから。
好きな人は「お前は夢を追いかけてるだけなんだから」と励ましてくれるけれど、その活動の先には何もないことを雪帆は知っている。
それでも、彼から「かわいい」と言われれば満たされてしまう彼女は見ていて痛々しい。
「南無阿弥だいすき」は、収録作の中では珍しくハッピーエンド風な話。
主人公キサは、バンドマンのユーゴと付き合っている。
彼の言うことを何でも聞くキサをユーゴは「クソつまんねー女」と言い、モラハラまがいの扱いをする。
「もっとキモチとかぶつけて来いよ」「俺のこともおもしろくさせろよ」と詰る彼に、キサが出した結論はいっそ小気味好い。
受動的に見えていた彼女は、実はちゃんと主体性をもって彼を見つめていた。
性差別っぽい言い方をするのは本意ではないんだけど、登場人物たちのメンヘラ具合は女性作者だからこそ描けるものな気がする。
周りで『クズの本懐』を話題にしていたのも大体女性だったし。
自分が女性コミュニティにいるからなんだろうか。
繰り返しになるけど、男性はどう読んでいるのか知りたい。
ジージャンを1週間に2着もらった話
ヘルムート・ラングが、1976年にウィーンに設立したブランド。
ベーシックな色使いやディテールにこだわったミニマルなコレクションを発表し、「ミニマリズム」の先駆け的存在として知られる。
90年台のファッションを形作ったとも言われている。
1999年にプラダグループに買収され、2005年にはヘルムートがクリエイティブディレクターの立場を辞した。
(参考:VOGUE JAPAN HP)
皆さんは、ジージャンを1週間に2着もらったことはありますか?
ある日お付き合いしている男の人から「何年も前に買ったジージャンがあるけど自分には小さいからあげるよ」と言われました。
ありがたくいただいて家に持ち帰った途端、「じゃあ新しいやつ買い足すわ」と言われたので「まじかよ」と思いました。
もう少し、クローゼットの中にぽっかり開いたジージャン1着分のスペースを眺めてしんみりするようなことはないんでしょうか。
彼はうきうきで、新しい古着のジージャンを注文しました。
ところが、届いたジージャンはなんだかピチピチしています。
そこで、それがレディースの製品だということに気づきました。
まごうことなき右ボタン。
こうして私は、世界で初めての(多分)ジージャンを1週間に2着もらった人になったのです。
ほら焦って買うから〜って思いました。
でも先にもらった方は弟にあげたのでみんなハッピーになりました。
彼は後日新しいジージャンを買ったそうです(今度はちゃんとメンズのやつ)。
めでたしめでたし。
さて、私はデニムに全く詳しくないんですが、せっかくもらったし良さげなものだったのでこれから品評をしていきたいとおもいます。
よくわからないですがお洒落感を出すために、自宅バルコニーで自然光の下で撮影。
ミニマルでありつつアバンギャルドな姿勢を持ったブランドの雰囲気が伝わるお写真ですね。
濃いインディゴ。
背中側から見るとタグの縫い付け部分が2つの四角になってるところがちょっと可愛い。
1997年には「HELMUT LANG JEANS」というセカンドラインが立ち上がったそうです。
タグをよく見ると右上にちっちゃくJEANSって書いてありました。
ボタンはこれ。
ここにも「HELMUT LANG JEANS」って書いてあります。
その後99年にプラダの傘下に入ったときに、どうもこのセカンドラインが「HELMUT LANG」に統一されたらしいんですね。
それを境として、99年後半にボタンの表記は「HELMUT LANG NY.」に変わったそうです。
ということは、このジージャンはわずか2年というヘルムートラング・ジーンズ期間に作られたもののようです。
この時代の製品は評価が高いみたいなので嬉しい。
ただ調べると、背中のタグに年代が書いてないのは99年後半以降の特徴だとも書かれていて。
過渡期に作られたものなのでしょうか。
いずれにせよ90年代後半のジージャンであることは間違いなさそうです。
メイドインイタリー。
ヨーロッパの服という響きだけで強くなれる気がしますね。
横のタグがぺろりんとして一部剥がれてたり頼りないんだけど、それも90年代後半〜00年代前半に作られたことを見分ける特徴だと書いてる方がいました。
詳しい人もいるもんだなあ。
HELMUT LANG ヘルムートラング90s-mid00sジーンズのざっくり年代判別方法|うぐいすよしの|note
【毎日ディティール】90s ヘルムートラング ジーンズ|うぐいすよしの|note
縫製はかっちりしてる感じ。
折り返しがたぽたぽしてなくてアイロンかけたみたいに平らなので、すっきりして見えます。
正統派な形なので、ふわっとした服に合わせてカジュアルダウンに使うよりは、上下デニムでかっこよく着こなしたいジージャン。
レザーパンツとかも合いそう。持ってないけど。
クールめでシンプルなデザインなら、ワンピースやタイトスカートに合わせても可愛いかもしれません。
合わせるリップ訊かれたら満場一致で赤。
でも今後しばらくはマスクで隠れるからリップメイクって衰退しそうだし、代わりにまぶたとか眉毛に色載せるの流行るんじゃないかと踏んでます。
ステッチに合わせてイエローアイシャドウとか合いそうだけどどうですかね。
ちなみに私が着た感じサイズ感はほぼぴったりでした。
前の持ち主(彼氏の前の人)にあまり着込まれてない気がしてて腕まわりは特にぴったりなんだけど、中にカットソー1枚くらいなら着られます。
今後余裕が出ることに期待。
アクシデント的にとは言えとても良いものをもらったので、大事に着ていきたいです。
自分の「当たり前」に問いかける 言語的相対説(サピア・ウォーフの仮説)について噛み砕いて説明してみる③
①はこちら
onceinabluemoonx.hatenablog.com
②はこちら
onceinabluemoonx.hatenablog.com
ウォーフ『言語・思考・現実』の紹介は、今回が最後になります。
「空」とは?「丘」とは?「山ぎは」と「山のは」が分けるもの
ウォーフは、それぞれの言語は文の構成という点で異なっているだけでなく、「いかに自然を分節するか」という点でも異なっていると考えました。
「われわれはできごとの広がりや流れをわれわれなりのやり方で分節し、体系化する」。
それは、母国語を通じてそのような考え方をすることに合意があるからであって、決して自然そのものが全ての人にそう見えるように分節されているからではない、というのです。
つまり、どういうことなのでしょう。
例えばsky(空)、hill(丘)、swamp(沼)といった語彙があります。
でも、空ってどこからどこまで?丘ってどこからどこまで?沼と池ってどう違うの?と聞かれた時、あなたは明確な線引きをすることができますか?
こういった自然の中の概念は、本来捉えがたい、実体のないものであるはずです。
ウォーフが念頭に置くのは英語ですが、例えば日本の古語でも同じような例が挙げられるのではないでしょうか。
「枕草子」には「山ぎは」「山のは」という2つの単語が対比されて登場します。
岩波の新古典文学大系では、「山ぎは」は「山の稜線附近の空」、「山のは」は「山の稜線。空に接する所を言う」と説明されています。
このような語彙を知らない時、私たちは山の稜線と空の溶け合う様を見て、山側、空側、と分けるのでしょうか。
こういった概念は多分英語にもないと思います。当然ですが英語と日本語も違った言語なんですよね。
Reimund BertramsによるPixabayからの画像
さて、ウォーフは以上のような例を指して「限りなく多様な自然の捉え難い特徴」を、「まるでテーブルとかいすのように一つの区別された「もの」と考えるよう、われわれを仕向ける」と言います。
そのため、英語やそれに類似した言語の立場からは、
世界は「かなり明確に区別されたものやできごと」の集まり、として捉えられます。
これがSAE(平均的ヨーロッパ標準語)使用圏での古典的な世界像です。
しかし、「テーブル」などの人の作った独立したモノと、「雲」や「海岸」、「かなたを飛ぶ鳥の群」など、常に形を変化させ続ける自然の中の現象(自然のおもて)は、同列に考えられるものなのでしょうか。
例えば英語では"It is a dripping spring"(それは水のしたたり落ちる泉だ)と表現することができます。
同じ事実を見たアパッチ族は、ga「白い(澄んでいる、無色である、など)」という動詞を中心として「水、または泉のように白いものが落ちる」と表現します。
このように、ある種の言語では個々の項が英語ほど分離していません。
このような言語では、「外界は個体よりなるもの」という世界像をもたないため、(従来のSAE使用圏の考えとは異なる)新しい論理や、新しい宇宙観が生まれてくる可能性があるのです。
名詞↔動詞の二項対立
もう少しお付き合いください。
印欧語やその他多くの言語では、「名詞」と「動詞」という二つの部分から成り立つ文型が多く見られます。
日本語でも基本的にこの形を取りますね。
ウォーフは、この区別は自然にできたものではなく、言語が構造を持とうとして生じた結果であり、アリストテレスに代表されるギリシャ人がこの対立を構成化し、理性の法則として利用したものであると考えています。
アリストテレス以来、「名詞⇔動詞」という対立は、論理学では「主語と述語」、「行為者と行為」、「ものとものの間の関係」、「対象とその属性、量、作用」などのさまざまな形で述べられてきました。
「SVOC」なんて言葉を受験英語ではよく使いましたが、英語では原則、主語と動詞として名詞+動詞という形を取りますよね。
例えば「きらめく」ということを述べるのにも、"it flashed"や"a light flashed"のように、形式上の主語(動作主)を必ず立てなくてはなりません。
ウォーフによれば、この文法の仕組みは、
名詞(「もの」)はそれだけで存在することができるが、
動詞は「もの」の部類に属するものをひっかかりとしないと存在できない、「実体化」することが必要である、という考え方に関与しています。
また例えば、数学で用いられる記号は、「1,2,3,x,y」と「+,-,÷,log~」のように大きく二種類に分けられます。
このように、「二つの部類からなるという考え方」は、常に思考の背後に存在しているのです。
先ほどの例で言えば、主語と述語に分ける必要のないホーピ語では、rehpi(きらめく、きらめきが起こる)という1つの動詞で伝えることが可能だそうです。
自然の中に「虚構の動作主」を設定する必要はありません。
日本語でも「きらきらしてる〜」って普通に言いますよね。
この点では日本語とホーピ語って似ているのかもしれません。
まとめ
結局、英語を中心とした言語と他の言語を比べることで、何が見えてきたのでしょうか。
ウォーフは、思考の型を(特に平易な)英語にだけ限るということは、思考の力を失うことであると主張しています。
同時に、単純な英語であっても、多種の言語を意識した観点から使いこなせるなら、もっと大きな効果を伴った扱い方ができる、と述べています。
このような考えから、未来に言語がひとつに統一されるのではないか、といった予測に対してウォーフは否定的であり、そのような理想自体が「人間精神の進展に大変な障害を与える」と言うのです。
また彼は、西欧文明の問題点は、印欧語を絶対視した分析に執着しがちであることだ、という見方を示しました。
その是正のための唯一の道は、「永い永い独立の進化によって、別な、しかしそれでいて、同じように論理的な一応の分析の結果に到達した他のすべての言語に見出される」と述べています。
グローバリズムは、遠く隔たった場所にいる人々の距離をも近くしました。
母語が違う人たちが協働する機会はこれからもっと増えていくでしょう。
その時に、言語が異なるだけでなく、考え方や価値観も異なるのだという認識を持って、互いに尊重し合う関係が構築できれば良いなあと思います。
自分の中の「当たり前」を、常に問い直していきたいものです。
おしまい!
「枝を傍へやる」=「足に余分な指が付いている」? 言語的相対説(サピア・ウォーフの仮説)について噛み砕いて説明してみる②
こんにちは。
前回サピア・ウォーフの仮説について書いてみたら、意外と好評だったので「なんで!?」って思いました。
どうしたの?時代がウォーフを求めているの…?
今回は続きのお話です。具体的な例が出てきます。
- 念のため、この記事は本の紹介です
- 「枝を傍へやる」=「足に余分な指が付いている」??
- 主語は「ボート」じゃないの??
- 文が違うのは「事実が違うから」だけはない!
- 混合物か化合物か
- 「当たり前の考え方」の背景には、言語がある
- 本の紹介
前回はこちら
onceinabluemoonx.hatenablog.com
念のため、この記事は本の紹介です
なまじ反響があったので不安になってきました。
前回からの記事では、ウォーフの「言語的相対論」についての論文を集めた『言語・思考・現実』という本の内容を一部取り上げて、簡単に紹介しています。
1956年に刊行された本ですし、現在ではこの説に対する批判もあるようです。
私自身も専門ではないので、論の正しさについては議論できません。
興味をもったら是非本を読むことをお勧めします。詳細は最後に載せました。
内容の要約に間違いがあったら、コメントいただけるとありがたいです。
「枝を傍へやる」=「足に余分な指が付いている」??
①I pull the branch aside(私はその枝をわきへやる)
②I have an extra toe on my foot(私は足に余分な指が一本ついている)
これら2つの英語の文は、似ているようには見えません。
ウォーフは、普通の人*1がこれらの文が違うと感じるのは「話題にしていることが本質的に違うから」だ、としています。
一方、ショーニー語で同じことを書くと、次のようになります。
①ni-I’θawa-‘ko-n-a
②ni-I’θawa-‘ko-θite
どうですか?
2つの文は、よく似ているように見えますよね。
①の文は、ni-(私)、I’θawa(分岐した輪郭)、-‘ko(木、灌木、枝などと類似の形態をもつ接尾語か)、-n-(手を動かして)、a(「私」がこの運動を適当な対象に対してなすことを意味する)と解釈でき、
「私はそれ(木の枝のようなもの)が分岐している部分を引張ってもって拡げるか離す」
という意味になります。
②の文は、-θite(接尾辞)が(足の指に関した)を意味していて、全体では
「私は余分な指がふつうの指から枝のように分岐して出ている」
という意味に取れます。
つまり、英語(日本語)では全く違うことを話題にしているのに、ショーニー語では同じような語を使って表現されているのです。
主語は「ボート」じゃないの??
反対に、こんな例もあります。
①The boat is grounded on the beach(ボートが岸に乗り上げられている)
②The boat is manned by picked men(ボートにはよりすぐった人が乗り込んでいる)
これらは、どちらもボートについて話題にしていて、他の対象(岸・人)との関係について述べています。
2つの文は、かなり似ていますよね。
同じことを、ヌートカ語で陳述すると次のようになります。
①tlih-is-ma(それは岸にあって、すべての点でカヌーの運動のようである)
②lash-tskwiq-ista-ma(彼らは選ばれた者からなる乗組員としてボートに乗っている)
今度は、両者は全く違っているように見えませんか?
どちらの文も「ボート」や「カヌー」という、英語に近い言語にはある単位すら含んでいません。
ちなみに文を解体すると、-ma(三人称直接法の印)、tlih(点状に動く)、is(岸で)、lash(選ぶ、よりすぐる)、tskwiq(残り、結果)、ista(乗組員としてカヌー(ボート)にいる)と訳せます。
”ista”自体がボートを意味しているわけではないことがわかりますね。
文が違うのは「事実が違うから」だけはない!
このように「言語的相対性」という視点から見ることによって、
「文が違うのは違った事実について言っているからである」
と言う代わりに、
「話し手の言語的な背景によって、事実は異なるまとめ方をされる」
「異なるまとめ方をされた場合、事実は話し手にとって違ったものとなる」
と考えることが出来るようになるのです。
混合物か化合物か
さて、ここから先は抽象度の高い話になります。
ショーニー語やヌートカ語のような言語についてウォーフは、「構成する語が直接何を指すかということよりも、むしろ、おたがいどうしいろいろな風に結びついて、何か新しい有益なイメジを作り出すような力を持っている」と考えました。
その意味で、文の要素の結合が「化合物」的なこれらの言語を「抱合語」と呼んでいます。
一方で、英語での文の要素の結合は「機械的な混合物」的であり、抱合語とは対照的です。
抱合語の一番の特徴は「自然を分析していき」、「示唆的な再結合が可能であるような基本的な語彙まで至っているということ」だとウォーフは言います。
「当たり前の考え方」の背景には、言語がある
これらのことから、彼は次のように考えます。
(西欧を中心とした)伝統的な論理では、機械的なものの考え方が取られてきました。
しかし、例えば相対性理論などのように、電子や光の速さなどの要素が非論理的な働きをすることについて、従来の考え方では上手く説明ができません。
他の言語や新しい型の論理の助けを得ることによって、このような問題についても説明することが可能になるかもしれないのです。
しかし同時に、機械的なものの考え方から脱却することの困難さについても指摘しています。
なぜなら、私たち人間は違った種類の言語的な経験というものをもたず、言語的な経験なしには違った種類の論理を提供することは不可能だからです。
ちょっとここ難しいですね。
つまり、機械主義的な考え方は、いわゆる普通の人が日常西欧の言語を使う際に、言葉のあり方に連動する形で自然と使われてきた一つのタイプにすぎないのです。
その考え方のタイプが、アリストテレスを起源としながら中世、現代に至るまで固定化され、強化されたものに他ならないのだと、ウォーフは言います。
言語が、人間の思考のあり方に枠組みを与えているのではないか、というのが彼の立場なのです。
本の紹介
B・L・ウォーフはアメリカの言語学者。イェール大学でE・サピアの教えを受け、メキシコの古代語(アズテク、マヤ)、アメリカ、インディアンのホーピ語を研究しました。本書は没後の1956年に友人J・D・キャロルの編纂により刊行されたものの邦訳です。
本書は言語的相対性原理に関わるウォーフの複数の著作を収録したものですが、その中でも専門以外の人たちのために書かれた6章「言語と論理」を中心に、「言語的相対論」(サピア・ウォーフの仮説)がどのような考え方なのか見ていっています。
*1:ウォーフは「自然論理を信奉するところの「平均人氏」」と表現しています。
言語的相対説(サピア・ウォーフの仮説)について噛み砕いて説明してみる①
「言語的相対説」って何?
みなさん「言語的相対説」って何なのか気になったことはありませんか?
ありませんか。まあそうそうないですよね。
でも「サピア・ウォーフの仮説」って聞いたことありませんか?
サピア・ウォーフの仮説とは、サピア(師匠)の考えを引き継いでウォーフ(弟子)がまとめた「言語的相対説」のことです。
「言語的相対説」とは何か簡単に説明すると、「言語とその話者の思考とには関連性がある」というような考え方のことです。
大学院の授業でちょっと調べてみたら面白かったので、ウォーフ『言語・思考・現実』*1を元に、言語相対説について紹介します(当時のレポートが元です)。
ちなみに私自身は言語学を専門にしてはいないので、あくまでも上記の本に書かれている内容について紹介するものだということをあらかじめ書いておきます。
これを読んで少しでも興味を持ったら、ぜひ詳しく調べてみてください。
簡単に本の紹介
B・L・ウォーフ/池上嘉彦訳『言語・思考・現実』(講談社、1993年5月)
B・L・ウォーフはアメリカの言語学者。イェール大学でE・サピアの教えを受け、メキシコの古代語(アズテク、マヤ)、アメリカ、インディアンのホーピ語を研究しました。本書は没後の1956年に友人J・D・キャロルの編纂により刊行されたものの邦訳です。
本書は言語的相対性原理に関わるウォーフの複数の著作を収録したものですが、その中でも専門以外の人たちのために書かれた6章「言語と論理」がわかりやすいので、それを中心に「言語的相対論」(サピア・ウォーフの仮説)がどのような考え方なのか見ていきます。
「言語的相対論」とは?
こんなことを聞いたことはありませんか?
イヌイット(エスキモー)の言葉
→〈雪〉を表す語がいくつもある=違った種類の雪を細かく区別している
日本語
→〈雨〉を表すいろいろな言葉がある(夕立、春雨、五月雨…)
これ不思議ですよね。
以前紹介した『翻訳できない世界のことば』という本では、世界中にあるその地域独自の語彙が紹介されていましたが、どうしてそのような違いが生まれるのでしょうか。
さて、このようなイヌイットの〈雪〉についての論説を、一般に対して最初に提出したのがウォーフです。
同じ出来事であっても、それが言語化される過程では違った捉え方の枠が適用されることがあります。
異なる言語が異なる捉え方の枠を提供しうるとすると、言語の違いは〈ものの見方〉にも影響するのではないか? という疑問が、言語と思考というテーマの出発点になります。
先ほどの例でいくと、同じ「雪」を見たとき、日常的に雪に囲まれて生活しているイヌイットの人は「雪」をより細分化したある特定の状態のものだと認識して「〇〇だ」と言語化するのに対し、普段雪を見ない地域の人は「雪だ」と言語化する、という感じでしょうか。
このように、同じ出来事を目にしても異なったことばで表現するのは、言語化の過程にある捉え方の枠が異なっているからだと考えられるんですね。
そこでウォーフが行なったのが、平均的ヨーロッパ標準語(Standard Average European、SAE)とアメリカ・インディアンの言語の比較研究です。
当時、英語に代表されるSAEは、「人類最高の文明を支える」ものとして絶対視されがちでした。今もその傾向はあるでしょう。
これに対しウォーフは、言語同士を比較して相対化することによってSAEを
・何か本質的に他の諸言語に勝る素質があるのではない
・他の諸言語にも西欧の言語とは別な優れた特性が備わっているはずである
という観点から捉え直そうとしました。
「サピア・ウォーフの仮説」(言語的相対論)の現在の基本的な認識としては、
・人間の言語は、諸言語間でただ無闇に異なっているのではない(例えば日本語では「バスが来た」と言えるが、この現在と過去で時制を使い分けないという文法はアメリカ・インディアンのホーピ族の言語と共通していると言える)
・なぜなら人間の〈身体性〉(心身両面を含めて)という条件づけに関しては、〈人間〉は種として十分な共通性を備えているから
・つまり〈言語〉も相互に予測の術もなく異なりうるようなことはあり得ない
要するに
・言語の異同の幅には一定の制約があり、その中で許されうるいくつかの有限個の可能性のうちどれを選ぶかという点での違いに過ぎない
というようなことになります。
簡単に言うと、
ある言語を特別な言語だ!と見なすのではなくて、
世界の諸言語はどれも〈人間〉の作り出したものであって、ちょっとずつ似ているよね!
結局世界は一つだよね!
という考え方をしようね、ってことです。
私はこのへんの世界観が気に入ったので言語的相対説に興味を持ちました。
おわりに
長くなってきたので今回はこの辺りまでにします。
期せずしてシリーズものになりました。
読みたい人いるんですかね?
次回は具体的な説明に触れる予定なので、こんな記事に辿り着いて最後まで読んでくださった奇特な方はぜひまた読んでください。
それでは!
↓続きはこちら
生きてるうちに読めて良かった。矢沢あい『天使なんかじゃない』
自分の幸せを いちばん守りたい
自分の理想とする高校生活を送れた、って言い切れる人はこの世にどれくらいいるんだろう。
小学生の頃から少女漫画で予習を重ねた。
昼休みには友達と屋上で購買のパン食べて、ある日放課後の非常階段で告白されて、彼氏と帰り道にクレープ食べるつもりでいたのに、実際には屋上は立ち入り禁止だったし告白されなかったしクレープはダイエーのフードコートで友達と食べた。
送りたかった高校生活がここに詰まっていた。
でも登場人物たちがみんなオトナで、25歳の今読んだからこそ圧倒的に共感できたのかもしれない。
同じ美術部なのに、翠ちゃんたちが恋バナしてる一方で私はお菓子パーティーしてたし。
ていうかもしかして私が気づかなかっただけで、周りの子達はみんなきらっきらな高校生活を送ってたんだろうか。不安になってきた。
まあ今思えば、自分の高校時代もそれなりに楽しかったんだけどね。
あらすじやちゃんとした評論なんかは、こんな有名作、色んな人が散々書いてきたと思うので、思ったことだけ書きます。(若干ネタバレかもしれない)
翠ちゃんと晃の出口のない感じ
私のイメージするよくある少女漫画の恋愛だと、主人公が憧れる男の子がいて、美人の恋敵が出現して、一方主人公に思いを寄せる幼馴染もいて、物語の最後に2人が付き合ってハッピーエンドになる。
『天ない』だと、翠ちゃんと晃は序盤でくっつくし、晃のことを好きな恋敵も出て来ない(マキ先生がいるけど、彼女は晃のことを弟的な存在として見ていて恋愛感情は抱いていないし、恋敵とはちょっと違うと思う)。
その点、2人の関係をおびやかすのは、外からの力ではなくて、お互いの信頼関係の揺らぎ。
「晃 他に好きな人がいるなら そっちに行っていいんだよ」
「おまえの他に行くところなんか ねぇよ」*2
ねえ晃 あたしたちこんなんじゃ 永遠に同じことのくり返しだね*3
この辺り、本当にしんどくて泣きそうになった。
好きな人と付き合えたらそれでめでたしめでたし、じゃなくて、そこから先のどうしようもなさ、しがみついてループに陥る感じ。
出口のなさ。閉塞感。
翠ちゃんのうじうじするところ、好きでした。
マミリンが可愛すぎる
そして何と言ってもマミリンですよ、マミリン。
最初はツーンと澄ました無愛想な子なのに、どんどん可愛いところが見えてくるマミリン。
魅力は尽きませんが私が「マミリン!!」と思ったシーンの一部を紹介します。ありすぎて書ききれん。
お調子者!
ライブのあいだ中 うわの空だったくせに 全然聴いてなかったくせに
よくもまぁ あんな適当に 良かっただの感動しただのいい歌だの言えるわね
失礼にもほどがあるわよ*4
完全版2巻で、翠と一緒にケンのライブを見に行ったシーン。
翠ちゃんは晃のことで頭が不安でいっぱいになっていて、曲をろくに聴いていなかったのに、どの曲が気に入ったか訊かれれば「全部♡全部♡」、さらに打ち上げに誘われて参加しようとする。
打ち上げを断り翠を連れ出したところで、マミリンのこの一喝。
マミリンの誰に対しても筋を通そうとするところに惚れました。
その上でそれで何があったのよ、と翠ちゃんの話を聞いてあげる優しさ。
その後マミリンはケンにもプロになることを勧めたりしてちょっと仲良くなっているところがまた良い。
自分の気持ちに嘘がつけないだけよ そこがあんたのいいとこよ*5
翠の「強いんじゃなくて ずるいんだよ」に対する返答。
このやりとりめちゃくちゃ好き。
翠… 今度こそ幸せになれるよね?*6
ここ、随一の名場面。
ってバンプの藤くんも書いてた。
翠のために、晃がプレゼントした天使の羽のネックレスを探すマミリン。
雨の中、自分のことのように必死になって、やっと見つけたところでこのひとこと。
瀧川くんに確かめるように訊くマミリン。
これはキスするよねわかるよタキガワマン。私でもするわ。
マミリン…!この場面読んで泣かないことあります?
誰にも引き止めてもらえないのかと思った*7
留学するか悩んでいたマミリン。
タキガワマンに「行くなよ」と言われて、一緒にいることを選ぶのかと思いきや、「耐えてよ」と自分の感情をぶつける。
自分の夢のために、留学には行く。
でも、「誰にも引き止めてもらえないのかと思った」と涙を流すマミリン。
マミリン…マミリン…マミリンンンンンンン
他にも志乃ちゃんにビンタするけどその後ちゃんと謝りに行くところとか、志乃ちゃんと瀧川くんの関係を壊すのは望んでいないところとか。
実は主人公マミリンでは? と思うほど名場面のオンパレード。
志乃ちゃんも不器用なだけの良い子だし、むしろ2人を振り回すほどタキガワマン魅力あるか? って思った。
とにかく、生きてるうちに読めて良かったです。
名作すぎた。